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仁王門 江戸の昔から人々をお迎えして

成田山新勝寺は、年間約1,000万人以上の参詣者が訪れる名刹ですが、大本堂以外にもその広い境内には、数多くの見所があります。

1980年5月31日、成田山新勝寺の旧本堂である光明堂釈迦堂をはじめ、三重塔・仁王門・額堂の五棟が国の重要文化財に指定されました。
一寺院で五棟もまとめて重要文化財に指定されるのは、きわめて異例なことであり、近世の寺院建築を知る貴重な存在となっています。そのうちの一つ、江戸時代から多くの人々をお迎えし、深い信仰を集めてきた仁王門についてご紹介します。

成田山新勝寺の仁王門は、大本堂の正面にある石段下にある三間一戸の八脚門で、1831年に再建されました。

入母屋造り銅板葺きの屋根の正面に、大きな千鳥破風が付けられています。

門の右に口を開いた阿形の那羅延(ならえん)金剛像を、左に口を閉じた吽形の密迹(みっしゃく)金剛像を奉安しています。

また、門の裏側に仏心を起こさせる広目天と、人々に福徳を授ける多聞天が安置されています。

門の中央には、ひと際目をひく大きな赤い提灯が掲げられています。
「魚がし」と書かれた大提灯は、東京・築地の魚河岸の旦那衆が、1968年に奉納したものです。
紙張りのように見えますが骨部分は砲金(青銅の一種)製で、重量が800kgにもなります。

魚河岸が仁王門に大提灯を奉納するのは古くからの伝統で、1859年に二代目広重が描いた「下総成田山境内図」にも、「魚河岸」と書かれた大提灯が描かれています。このようなことからも、江戸の多くの人々の信仰を、成田山が一心に集めていたことが覗われます。

 

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朱振りの仁王尊

正面に奉安された、金剛二尊は別名「朱振りの仁王尊」といわれ、次の様な伝説があります。

中世の末期から江戸時代初期の武将 寺台城主 海保甲斐守三吉が仁王尊に参詣した折、「もし私に敵よりも強い力を与えてくれたのなら、白木の仁王尊なので朱服を奉りたい。」と願いをかけました。

その帰路、寺台村の人形塚という所で闇夜の中に大男が両手を広げて、三吉の通行を邪魔するかのように立っているのに出会いました。「そこをどけ!」といっても立ちふさがる大男に三吉は怒り、ムンズとばかりに大男に組みつき、自分でも驚くほどの力で、傍らの田の中に大男を投げつけました。

阿形 那羅延(ならえん)金剛像

吽形 密迹(みっしゃく)金剛像

その時、頭上の松の上から「われはこれ成田の仁王なり。なんじの念頭を聞き入れて敵一倍の腕力を授けたまう。」という大声が響きわたりました。

三吉はこれを喜び、大願成就の御礼にと約束どおり仁王を朱塗りにし、仁王を投げ込んだ田を仁王面と名付け、成田山に寄進したといわれています。

その後、三吉は豪腕として雄名を馳せ、徳川家康の家臣になったそうです。

注釈:「朱振りの仁王尊」の朱振りは、色彩の技法である朱摺りの誤伝の可能性もあります。
(新修成田山史より)

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奇跡の身代わり手形

仁王門にまつわる不思議なお話がもう一話あります。

仁王門建立の上棟式の当日、大工や彫物師・銅瓦師に成田山から酒肴が振舞われ、皆が祝いの席につきました。
祝宴の途中、大工の辰五郎は手落ちがないかを確認するために長梯子を使い、屋根の上の足場に上っていったのですが、長梯子を踏み外し高所から落ちてしまいました。

これは大変!重症したものと一同が慌てて駆けつけると、辰五郎は平然と立ち上がったのです。

その後、辰五郎が懐中をあらためてみると、身につけていた成田山の焼印を押した手形が真っ二つに割れていたのでした。

手形が身代わりとなり、大事に至らないよう辰五郎の身を守ったのでしょう。
この奇跡の身代わりの手形が、成田山の身代わりお守りの始まりとされています。

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